Episode 07:勝負は、まだ始まっていなかった
しばらくのあいだ、僕は朝方の峠に通い続けた。 週末だけではなく、平日にも。 まだ街が眠っている時間帯にエンジンをかけ、誰もいない山へ向かった。
この頃の自分は、ドリフトではなく、まずはグリップ走行で速くなることを目指していた。
とにかく、きちんと走れるようになりたかった。
何度も同じコーナーを走り、ブレーキのタイミングを覚え、ラインを探す。 少しずつ、少しずつ、クルマの動きが手に伝わるようになっていった。
やがて、朝方だけでなく、走り屋が集まる時間帯にも顔を出すようになった。
まだ遅くて、まだ下手だったけれど、 それでも、他の走り屋たちと同じ列に並んで走れるようになっていた。
この頃、高校時代の友人たちも次々とクルマを手に入れ、峠に集まるようになった。
みんな、『イニシャルD』に憧れ、 峠とクルマが、ただ純粋に好きだった。
Tは、黒のアルトワークス HA11S。 Fは、赤黒ツートンのAE86トレノ GTV 後期。 Uは、黒のプリメーラ HP10。
自然と、峠を走る仲間が増え、 やがて、小さなチームのようなものもできていった。
走るのが、楽しくて仕方がなかった。
少しでも速くなりたくて、夢中で練習した。 ガソリン代とタイヤ代を稼ぐために、必死にバイトもした。
だが、ある程度走れるようになってくると、現実が見えてくる。
登りでは、AE86はあまりにも非力だった。
積んでいるエンジンは、4A-GEU。 高回転まで気持ちよく回る、素晴らしいエンジンだった。
それでも、パワーはどうしようもなく足りなかった。
登りでは、パワーのあるクルマに煽られ、次々と置いていかれる。
ある夜、登りを全力でグリップ走行していたときのことだ。
後ろから、一台の180SXが迫ってきた。
しかも、その180SXは―― 登りを、ドリフトしながら煽ってきた。
普通なら、ドリフトよりグリップのほうが速い。
それなのに、ドリフトしながら迫ってくる。
それくらい、AE86は非力だった。

悔しかったが、道を譲って先に行かせた。
頂上付近のUターン地点ですれ違ったとき、 そのクルマのドライバーが、若い女の子だと気づいた。
今なら珍しくないかもしれない。 でも、当時は、女性の走り屋は本当に珍しかった。
正直、かなり悔しかった。
エンジンのチューニングも、何度も考えた。
けれど、掛け持ちして働いても、 稼いだお金は、すべてガソリン代とタイヤ代に消えていく。
とても、エンジンに手を入れられる状況ではなかった。
だから、下りで食らいつくしかなかった。
下りの速さを、徹底的に磨き続けた。
この頃、この峠で最速といわれていたのは、シビック EG6だった。

名前だけは、何度も耳にしていた。
速い。とにかく速い。 登りも下りも、別格だという噂だった。
だが、その頃の自分は、まだ彼の背中を見る位置にすら立てていなかった。
追いかける以前に、 まずは、峠でまともに走れるようになること。
下りで必死に食らいつきながら、 「いつか、あのEG6と同じ場所で走れるようになりたい」
そんなふうに、ただ遠くの存在として意識するだけだった。
この頃の自分は、まだ知らなかった。
やがて、そのEG6が―― 自分にとって、本当の意味でのライバルになることを。


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