Episode 05:走り出す前から、峠はそこにあった
イニシャルDに憧れて、AE86を買った。
それは最初から、はっきりしていた。

通勤のためでもなければ、街乗りを楽しむためでもない。
目的はただ一つ――峠を走ることだった。
ハチロクは、そのためのクルマだと思っていた。
けれど、実は峠という場所は、AE86を手に入れるよりもずっと前から、自分のすぐそばにあった。
免許を取る前、新聞配達のバイトをしていた頃のことだ。
その職場に、少し年上の先輩がいた。
先輩はフェアレディZに乗っていた。
Z31型の、角ばったボディのZだった。
配達が終わったあと、先輩はよく峠へ向かっていた。
免許を持っていなかった自分は、運転はできない。
ただ助手席に座って、その走りを体で感じるだけだった。

助手席から見た、夜の峠。
夜の峠は、決して静かではなかった。
当時は、走り屋が本当に多かった。
週末になると自然と人が集まり、さまざまなクルマが峠に集結していた。
エンジン音。タイヤの音。すれ違うヘッドライト。
今思えば、そこは少し危うく、少し荒々しく、でも確かに「熱」を持った場所だった。
自分はただ、助手席でそれを見ていた。
走る人間と、走れない自分。
その差は、はっきりしていた。
だからこそ、「いつか自分も、ここを走る」
その気持ちは、静かに積もっていった。

走り出す前の峠には、独特の緊張があった。
高校を卒業するまでは、自分で峠を走りに行くことはなかった。
免許は取った。クルマも手に入れた。
それでも、どこかで一線を引いていた。
走ることがどういう意味を持つのか、自分なりに分かっていたからかもしれない。
そして、卒業を迎えた。
環境が変わり、時間の使い方が変わり、自分の中の歯止めも外れていった。
AE86は、ただ眺めるための存在ではなくなった。
峠は、憧れの場所から、自分が立つ場所へと変わった。
イニシャルDに憧れ、AE86を選び、先輩の背中を見てきた時間。
それらすべてが重なって、ようやく自分は、「走る側」に立つ準備が整った。
ここから先は、もう見ているだけではいられなかった。


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